★広場と自分のウチ。【vol.37】
ある日、SNSで見つけた鼎談(長谷部恭男・早稲田大教授と加藤陽子・東大教授と杉田敦・法政大教授)で、長谷部氏のこういう主旨の言葉を読んだ。
戦前の日本は『企業体国家』だった。国民全体の共通目標があり、国が個人の生き方を決める。戦後は日本国憲法のもとで企業体国家から「広場としての国家」へと国家像を転換させた。広場としての国家では、国民全体の共通目標なんかない。どういう生き方をするかは国民一人ひとりが決める。
広場としての国家。
それは私の国のイメージとみごとに合致していて膝を打った。
私はもともと、国はどデカい大学のようなものだと思ってた(性質的なことではなく単なる規模感のイメージ。または小学〜高校との比較イメージ)。
たまたま同じ所属ではあるけど統一感はゼロ。同じ趣味や目標、使命のために集まってもいない。好きも嫌いもない。だってあまりに人が多くてバラバラだもん。スポーツなどで時折「愛校心」みたいなものは芽生えるけれども。
だから「広場としての国家」という言葉はすごく腑に落ちた。そうだよね、大学より広場の方がずっとしっくりくる。あらゆる性別、年齢、国籍の人が、たまたまそこに集っている。それは多分に流動的で、団結も統一も目的ともしていない。個々の生きがいや幸せを、個々で追及する。
私はこれまで、外国人による治安の悪化(※そういうデータはない)にやたら警鐘を鳴らし続け、ついには外国人が普通に歩いてたり暮らしてたりするだけで「怖い」「出ていくべき」と言う人たちのことが心底不思議でしょうがなかった。なぜそこまで恐れるの?と。
そしたらTwitterである方が「(排外主義者は)国家の広さが『我が家』レベルなのでは」と言っていた。
別の方も「イヤなら日本から出ていけ!という人を見るたびに『お前は日本の家主かよ』と思う」と言っていた。何となくつながっているなと思った。
私の違和感はそこだ。たぶん「わが国」というものの捉え方が根本的に違っているのだ。
国を「自分の家」くらいに捉えている。そう気づいたら、不思議だったことが色々と腑に落ちる。
自分ちに外から知らん人がいきなり入ってきてくつろいだり、庭に侵入してパーティーを始めたら私だって「オイオイオイ」ってなる。許可取ればいいのか?いいや、そもそもここはウチだから出てってほしい。そうなるだろう。
自分のテリトリーだと思っていれば、知らんものは異物だし、いい悪い以前に邪魔だ。
排外主義の人がやたらと「暗黙の了解」や「ウチのルール」にこだわるのも分かる。外国人やホームレスを擁護すると飛んでくる「それならアンタが家で面倒見ろよ」という言葉もそのまま納得がいく。
悪い日本人の方がよっぽど多いのに…とも思うが、それは「ギリギリ身内」という感覚なのかもしれない。ウチの中にだってやっかいなものや悪しきものはあるけど、ギリギリ話が通じる。同じ国籍の同じ民だからまだ理解できる。
でもソトからやってくるものは話の通じない、価値観もまるきり違う異物だ。悪いものはソトからやってくるのだ。そんな感じか。
国家がウチ化してる。国家と自分は限りなく同一になる。そういう人にとって、ウチを最優先にする為政者のほうが慕わしい。ウチが一番と豪語しソトから来る者を追い払う頼もしい父ちゃん(または母ちゃん)には、ついていきたい気持ち。
で、それってあれだよね。まさに戦前の「企業体国家」だよね。果たしてそれでいいのか。
「それがいい。だって自分で決めるより、強く頼もしい何かが行く先を決めてくれるから」…そういうひとが多くなっている気がして、私はとても怖い。外国人は怖くない。ウチだけで固まり、強い父ちゃんのもと一致団結するぞ!となる方がずっと怖い。
国家は、やっぱり自分の家や庭じゃないし、自分のテリトリーでもないと思うの。
今後はもっともっと「自分ち」感は薄れるだろう。今よりもっと、遠くから来た人たちが多数参加し、交わるようになる。
そもそも自然の摂理といって差し支えないくらい、世界というのは勝手に広がっていくものだ。民主主義の元なら、それは閉じてはいかない。それを止めることは時間を止めるくらい無理なことではないだろうか。
確かに、グローバル=平和な世界ではないし、外国人が全員善人なわけでもない。文化も風習も違う人たちとまじわると、違和感、反感、トラブルだってたくさん起こるだろう。暗黙の了解はまるで通じなくなるだろう。
でもやっぱりここ、「自分ち」じゃないんで。国は広い広いフィールド。制御できるものではない。
だから私たちにできることって、文化も風習も価値観もまるきり違う人と軋轢が起こりそうな時には「はっきり言葉にして伝え合う」ことしかないのではないだろうか。
挨拶、お礼、「それはダメだよ」「私はこう思う」「君はなぜそうなのか」…ぜんぶ口に出して、相手の目を見て言う。同時に相手の言いたいこともちゃんと聞く。きっとそれしかない。
そういう訓練をしてきていない私たち日本人は、多分それがとても苦手だ。でもこれからは、それが必要になる。
変な煽動者や政治家に引きずられて「出て行け」と言ったり、国籍や帰化うんぬんをあげつらったり、「ちゃんとした外国人かどうか」のジャッジマンみたいになる前に、ソトから広場に来た人たちとその国のことを知り、コミュニケーションを取れるくらいになっておきたいなと思う。
理想論かなあ。でもいまの日本って、理想論やきれいごとを掲げていかないと、どんどんヤバくなる気がしてる。
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