★誰かと私。言葉と余白。【vol.30】

こないだツイッタの方につらつらと書いたことを、改めてしっかり書いておこうと思って。
近藤あゆみ 2025.05.13
誰でも

「他人の言葉で自分の感情を塗りつぶされないように、自分なりの言葉で表現する」

「他者との関係では過度な言語化で失われるものもある」


という呟きをツイッタで見かけた。言語化言語化いうけど、果たして言語化さえすりしゃいいのか?という流れの中で出てきた言葉で、どちらにもうんうんと頷いた。

他人の言葉の海に溺れる

SNSに長く居れば居るほど、言語化の祝福と呪いは両方受ける。

すごく的確でエネルギッシュでうまい言い回しで、かたちになりづらい感情や作品やアーティストの魅力を表現したりオススメしたりしてくれる人たちのおかげで、新しいものに出会えたりためになったりすることは数限りない。(おかげでイーロン支配下でどんどん酷いありさまになってもツイッタ…もといXがやめられない)

でもそれに慣れてしまうとあんまりよくない。
例えば自分が感想を書こうとするその前に、いったん誰かの感想を読みにいってしまったりする。自分の感想が的外れかどうか、一抹の不安があるのだ。外れていなければ安心して書き綴るし、何なら「場の空気」に若干倣ったトーンにしたりしちゃう。

時にはみんなのいい感想を読んで回ってたら満足しちゃって「そうそう、それな!!」で終わってしまう。自分の感想、どこいった。

同じ「言葉を浴びる」でも、本を読むと自分の感受性の先が凸の形になってぐいぐい伸びるのを感じるけど、インターネット(SNS)を眺めていると、感受性は凹の形をした受容体になり、他人の言葉を受けたままチャプンと沈んでしまう。

「好き」同士でも同じじゃない

同好の士(今どきに言えば「同じ沼の民」)で推してるものについて語らうのはとても楽しいけど、一見同じテンションに見えてもその実、味わい方や速度・深度、方向性はそれぞれ違ってたりする。

だから「あなたとは共有できるから」と怒涛のごとくその人の「好き」を浴びせられると、私はス…と引いてしまいがちだ。時にはその好きなもの自体から遠ざかってしまったりする。

誰かが己のアカウントで延々「好き」を述べているのはいい。見る見ないはこちらの自由だから。
そこに「宛名」がついて直接届くのがちょっと苦手かもしれない。ごく普通の、多くない頻度でやりとりする分には楽しい。でも断続的に大量に、こちら宛ての「好き通信」が届くと重たくなる。無理やりキャッチャーミットを渡され座らされ、球を受け続けてるような気持ちになる。

言語化の押しつけをしてないか

で、ここまで考えると同時に恐ろしいことに気づく。「私も誰かにやってるな…」ということだ。

聞き上手で、時折よい相槌やツッコミなども入れてくれるような友人に、どしどしロンゲスト感想を送ったりしてた。(特に暗闇ボクシング友達にやってたよね…)

自分がやられたことはようく分かってても、自分がやらかしたことはあんまり自覚できないし、自覚したときは時すでに遅しだったりする。こわい。私の感想がうざいと思ったことのあるすべての友人知人にお詫びします。ごめんなさい。

私も基本的には「好き」の言語化が得意な人と話すのが大好き。逆に感想が「面白かった〜」で終わる人と話すと、「おいおいそこを深堀ってくれよォ!もっと聞かせてくれよォォ!」と地団駄踏みたくなる。

結局そのタイミングや量は人それぞれだし、いつも一定のテンションでもないから、「おもしれー」と「鬱陶しいな」は簡単に逆転するんだよね。難しいなー。

自分はどっち側にもなる

自分はどっち側にもなる

余白はたくさんあった方がいい

周りの人の感情を浴びたい時、互いに浴びせ合いたい時は確かにある。それは恍惚と熱狂をともなう特別な楽しさがある。

でもそれは多分、「点」のほうがいいんだろうなと思う。少しばかり足りなくて、再び自ら出向きたくなるくらいがちょうどいいのだ。

それが「線」になり、ベルトコンベアが敷かれてしまうと一気にぐったりするし、その場のノリやミームの癖に慣れらされてしまって、自分の感情も言葉も見失ってしまいがちだ。

結局、誰の心の中にも、もっと「余白」が必要なんだと思う。

そこを他人の言葉で埋めようとして(または勝手に埋められて)しまうのは、あんまり精神衛生上いいことじゃない。まだ自分の言葉で埋める方がいい。そして自分の言葉がうまく出てこなくたってかまわない。

基本的に、余白は余白のまま、ふわふわと漂わせている方がいい。かたちにならないもの。決めつけられないもの。これから新しく入ってくるもののために、ゆるゆると空けておくのだ。

自分の余白に敏感になったら、他人の余白も尊重してあげないとなー。こちらの言葉で相手の余白を埋めてしまわないように。また、相手からたくさん言葉が出てこなくても、強要しないように。イライラしないように…(私だよ)。

あいまいで、ゆっくりで

「ネガティブ・ケイパビリティ」ということばが、最近よく耳に飛び込んでくるのも、自分的に(時時代的にも)そういう時期なんだろうなと思う。
急いで答えや理由を求めず、不確実なものやあいまいなもの、よう分からんものは、そのままの状態でいったん受け止めること。焦らず決めつけず居ること。
何がなんでも言語化!結論!確認!共有!じゃなくてもいい。

今は、自分がアウアウしてる間に、どこからか言語化も正解もハックもササッと出てくる。断言して、強い言葉で「これしかないぜ!」という人も出てくる。

でもそれは、本当に私と私の人生に必要だろうか。
私の愛するものは、本当にそこにあるのだろうか。

それをいったん止まって考えつつ、自分は一度に伝える量とペースを落とす、というのが今は大事かもしれないね。

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