★わたしたちは玩具〜「模倣犯」より【vol.19】

暑いけどみんなげんきですか?私は夏バテ知らずです!
近藤あゆみ 2024.07.29
誰でも

ここのとこ、久しぶりに宮部みゆき「模倣犯」を読み返しています。たぶん何十回目くらいの。

この作品はもし「棺に入れたい10作」を選ぶとしたら(何それ)確実に入るほど好きな小説。もちろんミステリとしても秀逸なのですが、そういうジャンルを超えて愛してる気がします。

ちなみに2002年の映画版についてはほとんど憎んでるくらい苦手です。ゆえに私は映画版を目にするたび、記憶を上書きするかのように原作を読み返すのでありました。

「模倣犯」の好きなところは、

・多分に情緒的なところ
・日常のディテイルの細やかさ(キングにも通じる)
・犠牲者の遺族の感情を丹念に描いてるところ
・日本語の動かし方が上手く、文章の流れが美しい

です。

私は宮部みゆき作品をたくさん読んでいるわけじゃないけど「本当にこのひとは素晴らしい文章を書くなあ…」と唸ってしまう。展開の上手さとボリューム感とあいまって、何度読んでも新鮮に物語にどっぷりはまり込んでしまいます。

あ、でも今日語りたいのは良さについてではありません。
刊行当初読んだ時にはそうでもなかったけど今はひしひしと感じるようになったことがあるのです。

この物語では若い女性が次々と犠牲になってゆきます。
下記の引用文は、ある犠牲者の家族が事件に関する特番と、あいだに挟まれるCMを自宅で観ている場面です。(ネタバレ回避のため単語を一部変えています)

そういう若い女性の事件を扱うはずの番組を支えているコマーシャルは、生き生きとして美しい、若い女性の映像ばかりだった。そしてそれらの映像は、もしかしたら、どれかひとつ間違ったら、ある種の危険な想像力を持つある種の危険な人間の心に、強い駆動力をもたせるかもしれない作り方をされていた。

(中略)コマーシャルの中で乱舞する若い女性たちのあでやかな姿が、その商品の宣伝のためのものではなく、別の目的のために存在するもののように思えてならなかった。わたしたちは玩具(おもちゃ)、綺麗な玩具、とっかえのきく玩具、捕らえても、殺しても、埋めても、好きなようにしてかまわないただの玩具--------そう呼びかけているように思えてならなかった。

あの子を殺したのは、ほかの誰でもない、この呼びかけに応えた人間ではなかったのか。(中略)呼びかけたのは別の何者かだったのに、差し出されたのはあの子たちの存在だった。

これを初めて読んだ時、私もまだ「若い女性」のひとりではありました。それでもこの箇所にそこまでピンとはきませんでした。なるほどとは思えど、ちょっと大げさな表現に思えたからです。

広告を作る仕事をしていたこともあり、「ポルノならまだしも、別にそんなふうなイメージを喚起させようとはしていないし、そこまでの受け取り方をする人もあんまりいないよね…」と思いました。

でも時が経ち、世の中のジェンダー観が更新されてゆく中で、あらゆる表現物(特に広告)における「オンナの役割・描かれ方」の違和感がどんどん大きくなってゆきました。少し前に自分自身が書いたことや作った広告を思い返して「完全にアウトだった」と反省することも増えました。

そして「模倣犯」のこの箇所を折りに触れ思い出すようになったのです。
「あれは、大げさでも何でもないかもしれない」と。

女性や女児が犠牲となる事件や日常のさまざまな差別やハラスメント。「どうして女はこういう扱いをされなきゃいけないんだ?」と眉根を寄せるとき、気づくのです。

あらゆる表現物で『女はこう扱っていい存在』と絶え間なく、かつ(作り手すら)無意識に喧伝され続けていることって、大いに関係があるよなあ…と。

・感情的でヒステリックな女
・難しいことは「よくわかんなーい」な女
・お洒落とスイーツ=女性向け
・きらびやかに着飾って男の横に座っているさま
・メカや数字や社会情勢に弱い女
・娼婦を手酷く扱うことで男の強さを表す場面
・そこらの女を手ごめにしてそれを誇る男
・特に役割を与えられず、いることで華を添える役割
・肌を露出してビールジョッキを持ったり、車に寄りかかったり
・乳をポロリするためだけの場面
・年長の男と「教えてもらう」若い女の組み合わせ
・幼な顔を赤らめ、舌たらずなさまが売りのキャラ
・「男に愛されるために」美しくなろうという惹句

…数え上げればキリがないけど、こういう1つ1つの表現が長い間そこかしこから降り注いだ結果、みんな…いや私たち女性自身ですら「そういうもの」だと思い込んではいないか。

例えば、露出が多い服を着て性犯罪にあったら「そんな格好してるのもいけない」「女も誘ってたのでは」となる空気はどこからきたんだ?「露出が多い性的な女がそう扱われる場面」を、無意識のうちに定型として刷り込まれてやしないか?私たち。

作り手も受け手もそのつもりでなくても、そのサインは無数に発信され受け止められている。そういうことを宮部みゆきは90年代末の時点で「模倣犯」の中で書いていたんですよね。

ちょうど今日、おぞましい書店販促物が大批判を浴びていて、やはりこの話の延長だと思いました。

ああいう販促や広告って「エロも表現のうち」とかいう話じゃなく、「女の身体と生理現象って、こう見てこう扱っていい素材だよね」といううっすらした刷り込みを、人の心にミルフィーユみたくどんどん重ねてゆくことが問題なんじゃないかな。

「大人と大人が合意の上で」ということを(まともな人なら)誰しも頭で理解していても、そのミルフィーユが分厚かったら、ほとんど無意識にとんでもない判断をしてしまう瞬間はあるかもしれない。実際、そういう大人がそこかしこにいる。

だから一見エロとは無関係な表現や広告も、作る時や受け止める時は神経質になるくらいでちょうどいい、と私は思いました。昔は全然思ってなかったけど。

というわけで「模倣犯」はすごいです。女性に関する表象のみならず、私たちが「こういうもんだ」と思い込んでいるたくさんのこと、それ自体が危ういことだと気付かされる場面がたくさんあります。未読の方はよかったら読んでみてくださいな。

最後に、「まさに今だよな」と思わされるこんな一節を引用して終わりますね。

どちらがより迅速に、効果的に、言いたいことを言いたいように言い、それをどれだけ広く報道してもらい、社会に信じてもらえるか。今や、善悪の判断基準はそれしかない。

(中略)皆、無意識のうちに知っている。宣伝こそが善悪を決め、正邪を決め、神と悪魔を分けるのだ-----と。法や道徳規範は、その外側でうろちょろするしかない。


ではまた!

今は文庫がおすすめ。おそらく全5巻ある…。

今は文庫がおすすめ。おそらく全5巻ある…。

無料で「よそみのあゆみ」をメールでお届けします。コンテンツを見逃さず、読者限定記事も受け取れます。

すでに登録済みの方は こちら

誰でも
★琥珀さん、俺、オンラインだめだわ。【vol.23】
誰でも
★髪型ひとつ。【vol.22】
誰でも
★うずまき理論。【vol.21】
誰でも
★味わう・つくる・ととのえる。【vol.20】
誰でも
★都知事選のあとで。【vol.18】
誰でも
★「それな」が過ぎて衰えた。【vol.17】
誰でも
喪服から感動へ。【vol.16】
誰でも
好きと嫌いの渡し方。【vol.15】